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コーヒーと本と

『コーヒーと恋愛』

獅子文六・著 ちくま文庫 2013.4
(『可否道』新潮社1963.8・改題)


サイフォン式

 あとがきに興味深い一説があった。筆者・獅子文六さんは毎日コーヒーを好んで飲んでいるがいわゆる通といわれるような飲み方をしておらず、執筆に当たって有名コーヒー店や問屋などに行って勉強したということだ。好きなものについて語ることは気持ちの良いものであることは明らかだが、多くの人を楽しませるように描くことはなかなか難しくそれが作家の妙というものなのだろう。いかにコーヒーが好きであってもそこにだけのめり込みすぎてしまっては物語の本質を崩してしまいかねず、バランス取りが難しい。読む人を楽しませながらこの時代のコーヒー愛好家を描いてくれているところが読んでいて楽しさを感じさせてもらえた。
 物語はテレビタレント坂井モエ子とその恋人ベンちゃん、そして「日本可否会」という5人の会を中心に進んでいく。「可否」はご存じの方も多かろうが「コーヒー」と読む。日本最初の喫茶店「可否茶館」から採用したものという。コーヒーの漢字表記は「珈琲」と書くのが多いと思われるが、ここで可否を採用したのはほかの当て字は画数が多く「可否」が一番さっぱりしていることでありまたコーヒーは可否のどちらかであり同志が探究しているのは味の可否であるということからであるという一文もなかなか骨のあるところだ。
 この可否会の菅会長の提唱する「可否道」と、坂井モエ子の恋のやり取りが両輪となって話が展開する。さすがに時代を感じさせる描写こそあるが、コーヒーが絶妙の触媒となりまた絶妙のテンポもあり現代劇としても十分以上の娯楽性を楽しく感じさせてくれる。筆者が再評価されているというのも十分に理解できる。

 コーヒーについては、一つは豆について。もう一つは道具、抽出の方法について描かれている。
 豆については、モカ・マタリに始まり、ブラジル、スマトラのマンデリン、キリマンジャイロ、ブルーマウンテン、モカとジャバ、モカ・コロンビア・ブラジル(「ブレンド」という言葉ではなく「配合したもの」という言葉が使われているところも興味深い)といったものが現れている。産地や農園が現れてくるのにはまだ後の話である。
 1962年初出(読売新聞)の小説であることから本編で一番最初に出てくるコーヒーがモカ・マタリであることからは西田佐知子さんの「コーヒールンバ」(1961年)を連想させる。また現在注釈として必要なのは「モカとジャバ」という記述であるが、これは本編で「豆」という記述があることからチョコレートやココアを用いたモカ・ジャバではなく、モカ(というコーヒー豆)とジャワ産のコーヒー豆(記述こそないがおそらくロブスタ種)を併せたブレンドコーヒーであると推測できる。これを一人暮らしの個人宅において急な来客のもてなしにブレンドするという坂井モエ子の居宅生活に、コーヒーを生業とするものとして非常に興味がわくものである。

 一方、道具・抽出に関しての記載は単語としての記載であり、技術的なものはないといってよい。興味深いものは坂井モエ子がネルドリップでコーヒーを淹れている描写だろう。
 冒頭のベンちゃんとのコーヒーを飲むシーンから描かれている。「綿ネルのコシ袋が彼女の道具」というのがさっぱりとしていてよい。そして彼女のコーヒーは美味しいという。ただ淹れ方に特別な記載はなく、「豆にも道具にもいれ方にも煩いことを言わないものである」とあるばかりだ。考え方を変えると、それも上手ないれ方なのかもしれない。美味しい原材料も下手に手を出すと魅力を失ってしまうことがあるからだ。ここでも名脇役といったところなのだろうか。
 本文中にはネルドリップという言葉はない。またここでいう綿ネルとは「フランネル生地に模して起毛させて作った綿生地」のことである。生地を扱う業界ではどうなのか存じ上げないが、コーヒー業界では「ネル」で通じる。時代背景に合った言葉だったのだろうか。同様にコーヒーミル(これも業界では「ミル」で通っている)もこの本の中では「コーヒー挽き」とされている。
 
 可否道、コーヒー道に話を移す。
 可否道は菅会長の考えであって、その成立の可能性を信じている。茶道というものがあって現代にも生きているが、茶ももともとは中国からの舶来品であって、コーヒーも舶来のものであることは同じ。茶が飲用の方法を芸術として高めていったことを珈琲にも同様にできないだろうかという考え方である。コーヒーの淹れ方、飲み方が進歩すれば作法となり礼となり道となり芸術となることを信じ、道具の美術化、骨董化、はたまたコーヒーを飲むための部屋、造園、装飾品に至るまでの想像もしている。茶には菓子があるようにコーヒーにいかなるケーキが要求されるか、というのは一文あるだけというのも面白い。
 コーヒーを淹れる作法をお茶と比べたところで、作法というよりも繰り返しているうちに定着した手法であり、またそれに外れるとおいしくなくなるということは同じである。「コーヒー飲みも、茶人も、本質的にはちがいがないんで、うまく飲もうという工夫がおのずと、道に通う」ということに落ち着いている。茶道でいう和敬清寂の気持ちというところである。(本文中では「静」「寂」に重きを置いている)

 冒頭にある菅会長がドリップ容器を貰ったというフランス帰りの男というのは筆者ではないだろうか、というのは私の想像であるがいかがだろうか。

 
 
『リバース』

湊かなえ・著 講談社 2015.5
 

 当代の人気作家で本作をはじめ、映像化された作品も多々ある。
 読んだ後に嫌な感じになるミステリー、「イヤミス」という言葉とともに並ぶ作品群にファンも多い。

 書架にある本書に何気なく手を伸ばしたのは、間違いなくコーヒーを連想させるような表紙のデザインだ。白地に描かれた黒い楕円の羅列。本棚に並ぶ背表紙の中である種異質だった。その背表紙にある18の楕円のうち2つに白い溝がある。珈琲豆にあるセンターカットであることはいうまでもないだろう。その認識だけで私の読書対象となった。

 厳密にいえばコーヒー豆は決して黒くはない。イメージとしての黒だ。珈琲の歴史を紐解いてみると、イスラム社会ではコーランで炭を食することを禁止していたことから珈琲に異を唱えていた人たちはこの点を論拠にコーヒー禁止を求めていたという。17世紀になりアハマッド1世のもと、宗教的権威者たちが「コーヒー豆は炭と呼ばなければならないほど強度には焼かれていない」という統一見解がまとめられ、ようやくイスラム社会において珈琲が公的認知を受けたという歴史がある。

 それはそれとして、黒い楕円に白のセンターカットを見ればコーヒー業界人ならずともコーヒー豆を認知することはたやすいことであると思う。この形状は紛れもないシンボルであるということができよう。もちろん裏返しになればセンターカットが見えなくはなるがそれが混じることで一層コーヒー感が増してくるかとさえ思われる。

 作中でも焙煎店の描写、産地のみならず「南国の花、ピーチの香り」「メロン、マンゴーの風味」との描写やペーパー、ネル、プレス、エスプレッソマシーンといった言葉までコーヒーに関係するものが多い。主人公はそこに勤めているわけではないのだが、それだけに濃密な描写であるともいえる。小説内でスペシャルティコーヒーという言葉を初めて見たような気がした。


 


 
『コーヒーブルース』
小路幸也/著 2012年 実業之日本社


BLUES ~悲痛な心情を描いた歌。珈琲のほろ苦さの描写に良く似合う。

心の中に刺さるトゲ。刺されたトゲは思いのほか深いものだった。それは深まり深まり、知る人でなければ気づくことがなく、自然とその人に溶け込んでいく。本人の性格も手伝い、深く深く溶け込んでいく。

冒頭で珈琲と相性のいいミートソースが出てくる。独特のレシピという紹介ではあるが、食してみたい気持ちは抑えがたい。珈琲もミートソースも互いに香りの主張が強いことは言うまでもない。「香りを潰し合わない」と書かれているのは中和するのとは違う。それぞれが存在感を持ちそこにあるのだ。同調とは違う共存。言うのは簡単だが、なかなか難しいもののように感じてしまう。