コーヒーが商業生産物として栽培される以前から、コーヒーの原産地といわれるエチオピアの人々は森や家の周りで成長している野生の珈琲の木から赤い実を集めてその果肉を儀式で使用したり、しぼり汁を抽出したり、また発酵させアルコールを作ったりもした。まずは珈琲の発見に伴う伝説をご紹介。
イスラム勢力全盛のエチオピア・アビシニア高原。人目に触れることもなく野生の珈琲が大きく育っていた。
ある日、放し飼いにしていたヤギが赤い実を食べ興奮しているのを見たヤギ使いのカルディ。修道院の僧侶と話してみるなかで共にその実を食したところ、全身に精気がみなぎり気分爽快になることに気づいた。
これ以降僧侶たちの間で夜の勤行の眠気覚ましとしてこの赤い実(珈琲の実)が使われるようになったという。
罪の問われてアラビアのモカから追放されたシェーク・オマールは食料も水もなく荒野をさまよっていた。
そのさなか、小鳥が赤い実をついばんで陽気にさえずっている姿を目にした。その実を採って煮込んでみると素晴らしい香りのスープとなり、飲むと心身に活力がみなぎった。
オマールはこの赤い実のスープを用いて多くの病人を救ったことで国王から罪を許されモカに戻ることができた。その後も人々を救い続け、やがて聖人として崇められるようになったという。
珈琲、コーヒー、coffee、cafe、Caffeなど世界中同じような言葉で呼ばれている珈琲であるが、もとはアラビア語のカフワという言葉から由来している。このカフワという言葉は広い意味があり、珈琲のみならずワインやカート(カフタという木の葉から作る飲み物)までも示す言葉であった。
イスラム社会ではワインを禁じている。そのことを紛らわすために使用されていたという説もあるが、イスラム社会において珈琲が正当性を確立するのはスーフィーといわれる神秘主義の修道僧であった。これには珈琲のもたらす、飲むと眠れないという作用と、夜を徹して祈るという宗教行為とが密接に結びついたことともいわれている。
次第に珈琲を広めつつあったスーフィーではあったがイスラム全体から見れば少数派であり、上のようなことがあったとしてもコーヒーでもありワインでもあるカフワが問題となるのも必至であった。
それが珈琲弾圧事件としても知られるメッカ事件(1511年)である。珈琲を堕落の象徴ととらえたメッカの総督はコーヒー(カフワ)を飲むこと、またコーヒー(カフワ)そのものを禁止するという結論の元、珈琲弾圧令が敷かれメッカでは珈琲は焼かれ、珈琲を売買するものは鞭打たれた。コーヒーの全面禁止とまでは賛成しなかった派閥は事の顛末を本省のあるエジプトに伝えてたところ、珈琲の禁止を認めるのではなく、反宗教的事象の取り締まりのみを認可され事件は終息し、珈琲の自由は守られることとなった。
珈琲が大手を振って人々の前に現れれば、珈琲がワインとは別物であるとの承認は時間の問題であった。イスラムの食事作法に違反する珈琲の飲み方は次第と特例とされていくことだった。
意外と長く尾を引いた問題は「珈琲は炭ではないか」という問題であった。コーランでは炭を食べることを禁じていたからだ。珈琲豆は炭と呼ぶほど強度に焼かれていない、という統一見解がまとめられるようになった1610年ごろ、ようやくコーヒーはイスラム世界で公的認知を受け、世界へと飛び出す土壌ができていった。
1554年トルコのイスタンブールにコーヒーの家(カヴェハーネ:カフェハーネス)と呼ばれる最古の喫茶店ができた。コーヒーの家の最大の魅力は新しい社交場として認知されたところであった。またコーヒーの淹れ方を知らない人にコーヒーを飲ませ、珈琲需要を早急に伸ばしコーヒー交易を活発化させるという商人たちの狙いもあった。
やがてイスラム世界の重要都市や美しい山河のある地に立つ豪奢なコーヒーの家はイスラム教徒のみならず、中近東を旅するヨーロッパの人々の耳目を引き付けていった。
コーヒーの家もヨーロッパに拡大し、1652年にはロンドン、1666年アムステルダム、1671年パリ、ウィーンなど各地に最初のカフェが記録されている。増大するコーヒーの需要に対してコーヒーの供給源は唯一イエメンのみであった。珈琲は高値になり、イエメンは潤った。
モカという名前は、この時の積み出し港の名を取っている。モカだけがコーヒーの積み出し港であったわけではないのだが、イギリス・オランダ・フランスなどヨーロッパの船舶が直接寄港と買い付けを許されたという特殊性によりモカという名前がイエメンのコーヒーを代表する名称となった。
イギリス東インド会社によると、イギリスにおいても1730年ごろまでは茶よりもコーヒーの輸入のほうが圧倒的に多かった。
オランダ東インド会社では国内需要よりもインド、インドネシアといった他のイスラム圏の地域へのコーヒーの輸出に活躍していた。
オランダでは増大するコーヒーの消費に需要と供給のバランスが崩れつつある中で、珈琲のプランテーションへと移行することになる。セイロンで1658年、その後主流になるジャワで1680年、栽培を始めた。オランダ本国に送られるようになるのが1712年であり、コーヒー栽培は急速にオランダ東インド会社の収入源となり、風味、色、アロマとともにヨーロッパでのスタンダードコーヒーの地位を確立することになった。引き付けていった。
イギリスでのコーヒーハウスの始まりは、1650年ジェイコブなる人物がオックスフォードで開いたものといわれる。ロンドンでの開設はそれから2年後になる。コーヒーハウスが公共の場として発展する中で、民間において都合の良い、現代にも残る「共有するもの」が現れ始めた。郵便は公的なものもあるにはあったが、実際にはあまり機能しておらず、1680年代コーヒーハウス間で組織された郵便制度ができ、果てには国際郵便にまで広がっている。公的郵便がコーヒーハウス郵便を完全に排除できたのは1840年のことであった。
1690年ごろできた公的な株式取引所もそこだけでは不十分であり、ジョナサン・コーヒーハウス(のちのロンドン証券取引所)、ヴァージニア・アンド・バルチック・コーヒーハウス(のちのバルチック海運取引所)などもあった。
また保険業務においてもコーヒーハウスの運営者であったエドワード・ロイドが1689年顧客サービスの一環として保険を希望している船舶を紹介し始める「ロイズ・ニュース」を発行する。この店の客は船主、船乗り、旅行者が多かった。のちのロイズ保険である。
さらにコーヒーハウスは公的世論の形成の場としても地位を確立する。人が集まるだけでなく、遠隔地との交易は国家の強化ないし整備までも議論する場として発達した。議論のみならず、1ペニー払うだけで学習や新聞を読むといった側面も評価され、コーヒーハウスはワンペニー・ユニバーシティーとも呼ばれた。
世界的に大きな流行と恐怖をまき散らしたペストについてもここで触れておきたい。
1660年王政復古といわれる時期を過ぎ、コーヒーハウスが市井に増加したなかでペストの流行がロンドンに現れたのが1655年ごろといわれる。人口統計のまだ発達していない時期とは言われ数値は参考程度だが、46万人といわれたロンドン市民に対しおよそ7万人が命を落としたといわれる。
1665年6月に「ペスト条例」というものがロンドン市長、市参事会の連名で交付される。この中にコーヒーハウスが読まれている。
・放蕩無頼の徒および有害無益な集会に関する規定
レストラン、居酒屋、コーヒーハウス、酒蔵などにおける痛飲は東大の悪弊であり、悪疫伝播の一大原因であるゆ
え、これを厳重に取り締まらなければならない。当市古来の法律と習慣に準し、今後夜9時過ぎにこれらの店に出入り
することを認めない。違反者は処罰する。
どこかで聞いたことがある文面だが、このときでさえ1603年に議会に提出された家屋封鎖に関する規制に基づいているものと言われている。
またこの時期ささやかれていたこととして、「コーヒーがペストの予防薬となる」という噂があった。あちらこちらのコーヒーハウスにはそれ以外にもさまざまな「よく効く」という薬の広告が見られるようになったというのもどこかで聞いたことのある話である。
ロンドンでペストが下火になったのは1665年11月ごろといわれている。
賑わいを誇ったイギリス・コーヒーハウスであったが1730年ごろになるとロンドンからコーヒーハウスは急速に数を減らしていく。一つにはコーヒーハウスの持つ社会的既往が果たしつくされたということと、人々が紅茶に向かったことがあげられる。施設としてもコーヒーだけを楽しむ場から、食事を楽しむレストラン、クラブといった具合に変化していったことも挙げられる。
そこに登場してきたのが紅茶であった。1717年トーマス・トワイニングが開設した「ゴールデン・ライオンズ」はコーヒーハウスにない優美な雰囲気を強調し、女性に大歓迎で迎えられた。
紅茶がイギリス宮廷に入ってきたのは1662年のことであった。まだ貴重な茶にこれまた貴重な砂糖を入れて飲むという富と権力の象徴のようなの見方をしていた。紅茶、砂糖もまたコーヒーと同じくプランテーション化により安価になり、1730年代には珈琲同様の価格で英国内の市民生活まで供給されるようになった。
オランダ東インド会社にコーヒーに関しては後れを取ったこともあり、イギリスは茶の輸入と消費に傾倒していく。
エチオピア、イエメンで発見されたコーヒーがヨーロッパに苗として届いたのはコーヒーハウスよりも早く、1616年アムステルダムの植物園においてだった。販促にも成功し、のちにルイ14世に献上されることになった。
貴重なコーヒーの木であったわけで流出を恐れ厳重に管理された苗木であったが、1721年フランス海軍士官ガブリエル・ド・クリューがカリブのマルチニーク島に困難を乗り越えたどりついた。この時持ち込んだ苗木が原木となり、西インド諸島やメキシコにコーヒーの木が伝播した。
1727年にはポルトガル海軍士官フランシスコ・パリへタが仏領ギアナにコーヒーの木を持ち込んだ。これは恋に落ちた総督夫人への贈り物の中にコーヒーの苗木を忍ばせたものといわれている。この苗木がブラジルコーヒーの基となった。
1830年にもなるとブラジルでのコーヒーの生産は世界生産の半分を占めるようになる。現在でも世界最大のコーヒー生産国であるが、品種の広まりや生産地区の広がりなどにより、ブラジルでの生産量は世界全体の38パーセント程度になっている。
18世紀にはさまざまな地域にコーヒーの苗木が広がっている。1748年キューバ、1760年グァテマラ、1779年コスタリカ、1790年コロンビア、1796年メキシコ。現在でも知られる生産国だ。
アフリカへは別のルートから広まっていく。イエメンからマダガスカルの東の海にあるレユニオン島に1717年。ここから1877年タンザニア、1892年ケニアへと広がっていく。隣国エチオピアから伝播したのではないというのも興味深いものである。
インド、インドネシアには先に書いた通り17世紀にはすでにコーヒーの栽培が始まっていたこともあり、この時点で現在の産地にほとんどコーヒーは伝播している。